2022-12-09 のメモ
Aさんがスペースで話されていたので用をしながら聞いていて、これは私に必要なことだなーと思ったことがあった。
器が展示場にあるときと、食器棚に入った時とでは印象が違う。だから展示の時点で食器棚に入れてイメージがしやすいように、「買ってみたけど家にきてみたらびっくり」みたいなことが起こらないようなことを意識している、というお話をされていた。
私にはこれが全く足りていなくて、私はどちらかというとAさんが出会った「展示方法に無頓着なおじさん」の方に近い。
パッケージングすることが苦手でもあるし、それぞれの人の想像力に立ち入る行為のような気がして気が引けるし、そういう分かりやすさに依存しないで見てほしい、という気持ちがあるからなのかもしれない。
でも、Aさんのように、自分が作ったものがどういう風に受け取られて、使われるのかというところまで想像を及ばせるのもいいな、手渡して終わり、これは素材だから自分で料理してね、というだけじゃないこともできるな。それは「寄り添い」ではなくて、自分の手を離れたもう少し先まで責任をもつというか、こだわりを持つというか、そういうことでもあるんだなという風に思った。
もちろん、Aさんが作っているものは生活に関わるもの、「使う」ものだから、私がしている踊りのこととはちょっと話が違うということも分かっている。
でも例えばストレッチだったら、自分のこだわりのために不親切なままでいなくてもいいのかもしれない。
簡単なパッケージングをしてみたら、もしかしたら喜んでくれるひともいるかもしれない。
自由にやるから、自由にやってよ、ということだけがやり方じゃないな。
もしかしたら来年は、こうして少しずつ頑なさを溶かしていく年になるのかな。
という予感がする。
自分が信じているものを手放すことはしないけれど、でも全部それに当てはめなくても良いし、使いどころを見極める…つまり踊りのことには適用できなくてもストレッチにはその手段を使った方がいいよねとか、私が考えていることをいったん離れて(ほんとうの意味で離れて)話をきく、絶えずジャッジしたりうがった見方をするんじゃなくて別の器のことも知ってみる、というかんじ。
パッケージング、ってなにかな。
あと言葉も、不親切だよねわたしは…。
もちろん理解してもらったり、広まることが目的で自分を明け渡すようなことは嫌だけれど、どんどん入り口を狭めるようなことをわざわざする必要はない。ストレッチなんて特に、こだわる部分はそこじゃないし。自由にやってほしければなおさら、自由のなかに相手を放り出してはいけない。のかもしれない。
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撮影の仕事終了。
今回も無事終わってほっとしている。
これで全シーズンを撮り終えたわけで、最初の驚きも消え、なんというか私の知らない世界だったけれど、やっぱり天井はこのくらいか、という気持ちでいる。老舗ブランドでもこんなものか…とひとつを見ただけで早合点するつもりはないけれど。
これなら、蚤の市に売っている昔の木綿のパジャマの方がずっと見ていたい気がする。目がきちっとつまって、ボタンもきっちり固く縫われて、本当に丈夫なの。まあそりゃそうだ、60年以上経ってるのにまだしっかり着れるのだもの。服というか、布の織りが違う。現代のものがすべて安っぽく見える。